悪魔に取り憑かれた無垢な少女を皆で手を取り合い救う話。ホラー界の最恐作『エクソシスト』の50年越しのリブート作。正直、これは駄作以下の最低な映画でした。一言でいえばコンプラ版エクソシスト。以下、初代以来のファンとして大真面目にレビューします。
初代『エクソシスト』で母親役を演じたエレン·バースティンがエクソシズムの権威役で出演していたり、マイク·オールドフィールドの『チューブラーベルズ』がアレンジされて流れていたり(ただしピアノ風の音になってたのは少し気になった。あのパイプオルガンっぽい高貴な響きが良かったのに)と、オリジナルへの敬意はところどころ感じられる。評価すべきと感じたのはそこくらいかもしれない。
強引にシナリオにぶち込まれたエレン·バースティンが本作ではかなりきな臭い役を演じている。娘を悪魔に奪われかける苦悩の母親を演じた初代『エクソシスト』での演技は本当に素晴らしかったのに、本作では、娘を奪われかけたことを出汁に何のかのと胡散臭いことを語って、悪魔憑きの少女に目潰しされ早々に退場。他人のいざこざに関わり、手を引かれるように不幸のどん底に落ちてしまうところはバースティンの面目躍如な感がありましたが、彼女の語るエクソシズムの極意がたいへんに嘘くさくて早々に萎えてしまった。シナリオに都合よく使われてる感じの立ち位置。
「人の繋がりが少女を悪魔から救う」ってのがおそらくこの作品のテーマで、タイトル『エクソシスト 信じる者』もそういう意図なのかと。ただ、僕はそういう綺麗事を口にする人を信用しない。それよりも、他の人間なんていくら死んでも構わないから自分の娘だけは助かって欲しいって素直な気持ちを僕は信じるな(オリジナルでも、悪魔祓いに携わった神父様は死んだけど、娘は無事助かってハッピーハッピーハッピーだったわけだし。親ごころの素直さは博愛主義なんかよりずっと理解できるし寄り添える)。愛や友情ってのは美しいけどそれは自分の交友関係の及ぶ範囲でしか行使できない感情だと僕は思っている。だから、見ず知らずの他人のための「愛」や「友情」を唱える人間(とくにフィクション上の人間)には胡散臭さを覚えてしまう。見ず知らずの他人が死んだってどうでもいいじゃん、そのかわり、自分が本当に大切にしたいと思う人を大切にしたらいいじゃん、とかって思っちゃう人間には、この手のシナリオは絶望的に合わないんだろうな(少し余談ですが、最近、友人が死刑反対と言っていて、理由を聞いたら、死刑を認めることは究極的には自分が死ぬ可能性を容認することだから怖い、自分が死ぬかもしれない可能性は1%でも排除したいと言っていてああ好きそれと思った。自分起点の話には嘘がない)。
とにかく、ホラー映画に綺麗事は持ち込まないでほしい。汚くて下品で絶対に子供には見せられない下劣さ(ただし画面は芸術)にオリジナル版『エクソシスト』の真実らしさはあったわけで、綺麗事を持ち込んだ時点でおしまい。下劣であればあるほど真実だとは思わないけど、美しくあればあるほど嘘に近づくというのは真実だと思う。コンプラだの何だのに配慮して、悪魔憑きの少女に「ジーザスとファックさせろ!」とか「わたしのアソコを舐めろこのアバズレが!」とか叫ばせない時点で、このリブート版を真面目に評価するのは難しい。こんなものはコンプラ版エクソシスト。
それからダイバーシティ。おそらくはこれが本作が駄作化した理由の根幹だと僕は思ってる。多様性を採用すると嘘がまかり通ってしまう。それが映画における人種問題の一番の問題点だと思う。仮に現在のアメリカでは白人が5割、黒人が2割、ヒスパニックとアジア系が3割、なのだとしたら、映画の世界でそれらの人種が1対1の比率で出てくるのは絶対におかしい。そして現実の世界では、白人の子は白人の子とつるみ、黒人の子は黒人の子と友達になる、のが圧倒的大多数なのに、何の説明もなく、白人の子と黒人の子が親友同士で出てくるのには違和感を感じる。
クリント·イーストウッドの最近の映画に、白人2人、黒人1人の仲良し3人組が、電車の中でたまたま鉢合わせたテロリストに立ち向かう実話モチーフの映画があって(タイトルは忘れた)、冒頭で、その黒人の彼が「なぜ僕がわざわざ白人と親友になったかって?それにはわけがあるんだ」と語り出すシーンがあった。僕はあれがとても好きだったな。真実っぽくて。
人種問題に自覚的だったジョーダン·ピールの『ゲットアウト』は、白人の美女が、黒人のボーイフレンドと付き合っている事実それ自体が、作中で起こる気味の悪い出来事の起点になっていたし、スパイク·リーの映画でも、他人種は容易に分かり合えないことを前提としてストーリーが作られている。それが人種問題の当事者の視点であり、多様性という「規則」に従って複数の人種を作中に盛り込む作り手は、こうした人種問題に本来ついてまわる切迫感をまるで無視している。
少し話が逸れたけど、要するに、ダイバーシティを採用すると、嘘を許容するキャパシティが広がってしまう。それが映画における人種問題の最大の問題だと僕は思っている。多様性が映画を画一化する。こんなお馬鹿な図式が至るところでまかり通っているのに、ダイバーシティは正義ということになってるから、誰も声を上げられない(仮に声を上げても、正義オナニストたちの自慰行為にかき消されてしまう)。人間はひとつ嘘をついたら、次の嘘も容易につけるようになるもので、ダイバーシティって嘘(もちろん理想とも言う。理想ってのはつまり嘘のことだけど)を作品に盛り込んだら、愛とか友情とか、別の嘘も容易に持ち込めるようになってしまう。その連鎖が作品をクソにしてる。現実を描けない映画に何の価値があるのか。
全体通して、名作のリブートを作れる体力も独創性もない人が作った映画という感じが拭えず、シリーズ通してのファンとしては、たいへん残念な作品でした。正直、怒りすら湧いたレベル、、まあオリジナルがオリジナルなので、観る前から予想できてたことではあるけど、ここでの評価が悪くない(3.4!!!)のでちょっと期待しちゃったなあ、、ウィリアム·フリードキンはマジ偉大だった。マジ偉人。彼があの世でこの作品にブチ切れてる姿が目に浮かぶな。