慈善団体の幹部として莫大な資金を動かし、芸術に寄与するエリートの男が、偏執的なSM嗜好を抑えられず、美女を誘拐して館へ連れ込んでしまう。彼女を、人形と交わらせたり、包帯を体に巻きつけただけの格好で踊らせたり、ピアノを弾かせたり(笑)と、破廉恥な行為を強いているうちに、二人の間に情熱的な恋心が芽生えてしまう。何やらヤバい映画が上映されていると聞きつけアップリンク京都へ駆けつけ鑑賞。これは相当にヤバい映画でした、、そして同時に、記憶に残りつづける傑作でもあった。
まず本作は、「55年前の新作映画」との大胆な触れ込みで、事実、初公開は1969年。『バーバレラ(68)』や『女性上位時代(68)』など過激なエロティシズムの映画がヨーロッパで流行していた時代に製作されるも、時代の波に乗れなかった。また、当時のイタリアに残る、ネオレアリズモ以来の、リアルな社会派映画を評価する機運の中ではあまりに異端すぎて批評家から相手にされず、かといって一般層に受けるほどの”分かりやすさ”もなく(*後述)、50年の時を経て最近ようやくその存在と価値を「発見」されたという経緯。今回(2024年6~7月)の上映が日本初上陸で、映画先進国のうちでは日本だけがこの映画の影響から取り残されていたんだそうな。
主演はフィリップ·ルロワは、ジャック·ベッケルの『穴(1960)』を筆頭に、多くのフランス映画に出演してきたフランス貴族出身の俳優。ヒロインはドイツの女優ダグマー·ラッサンダー。マリオ·バーヴァやルチオ·フルチの映画への出演歴もあり、イタリア映画との因縁はなかなか深い女優さんのよう。当時のイタリア映画は、どの作品も基本的にはセリフの「吹替」を前提に撮られているので、その辺りの事情(主演がフランス人×ドイツ人)はかなりおおらか。かの『サスペリア』の主演だって、アメリカ人のジェシカ·ハーパーが全編英語で喋っており、それを国内の公開ではイタリア語に吹き替え、海外の配給では英語に吹き替えていたりする。その弊害?として、本作でも、登場人物の口の動きと「音」がしっかりズレているのだけど、そこはまあイタリア映画をいくつか観ているうちに慣れる気がする笑。
ポップとサイケデリック·ロックとジャズを混ぜ合わせたような本作のメロディは単体でも人気なようで、イタリアでは本作の曲を収録したコンピレーション·アルバムが出ているとか。大股を開いた女性の巨大像は、”本作といえば”なアイコニックなオブジェですが、これは「テロリストになる代わりにアーティストになった」フランスの芸術家ニキ·ド·サンファルが制作し、66年にストックホルム近代美術館で展示され、約10万人がその「股の間」に入っていった(!)実際の展示品のレプリカなのだそう。画面自体が全編、動くポストモダンアート的な仕上がりなだけについ見過ごされそうだけど、こういうオブジェにはとにかく手が混んでいるのよねこの映画。
古今東西、金と権力を持て余した人間が行き着く先は必ずエロスなので、権力者の男の側が、こんな破廉恥なことをしている理由は想像がつくものの、その変態行為に嬉々として参加しているように見える女性の心理はラストまで明かされず、終始、観客の共感を跳ねつける力学のもと撮られている作品かのよう。原色の色遣いを中心とした、さながら『時計じかけのオレンジ』の先駆けかのような極彩色の近未来SF的美術造形に視線を奪われる。すべてのフレームが一枚の絵としても成り立ちそうなアートな画面に釘付けになっていたら、まさかのラストが待っていた。アヴァンギャルドな女性蔑視作品に見せかけつつ、実はアヴァンギャルドなフェミ映画だったという謎のカタルシスよ。こんな作品に出会えるとは、、映画って凄いね。
中盤で拷問の最中に髪を切られてからは、ヒロインの容姿が清純な少女のそれのように変貌。『悲しみよ、こんにちは(58)』でジーン·セバーグが披露し、大流行したセシル·カットを思わせる髪型に、観る側としては、つい彼女の純情さを信じてしまったところで、実際に二人の幸福を示すシーンが連続し、その後ラスト付近で突如「どんでん返し」が起こる。なお、ここでの二人の幸福の描写で、何の説明もなく、カットが変わった瞬間に突然画面に現れる水陸両用車(この車自体はずっと現れていたのだけど、まさか海にも入れるとは思わなかった笑)に、そうはならんやろ、と心の中で突っ込みつつ盛大に笑った。これは本作通して言えることだけど、商業的には絶対に余計だろうと思える箇所にお金もこだわりも注ぎ込んでいるのがこの映画の素晴らしいところであり、同時に、この映画が同時代的には絶望的に受けなかった要因なのだろうと推測する(実際、車が水陸両用だから何だ?というのが観客としての素直な感想で、もっとお金を使うべきところはあるでしょうよと思ってしまう笑)そうしたこだわりを連発するごとに、一般層からすれば「分かりづらい」映画と化し、もっと分かりやすい作品、たとえばポルノとかホラーとか、に人は流れてしまう。
そして、本作ほどの怪作が、50年以上ものあいだ衆目を浴びなかったのは、『ソドムの市』のように有名な監督が手がけたわけでもなければ、『死霊の盆踊り』のようにその徹底したナンセンスをネタにしようとする力学が、不運(?)なことに働かなかったためか、そのあたりだろうと思う。いうまでもなく、「分かりづらさ」は、映画が瞬間的にヒットしない要因にはなるけど、その後にカルト的人気を持たない要因にはならない。たとえばパゾリーニやゴダールの映画が良い例。いずれにせよ、これほどの力作が無名なのは勿体無いと思ってしまい、こうして長文の記事を書くに至った。なお、作品の邦題は当時流行っていたヤコペッティの『世界残酷物語』からの借用だけど、中身はまったくの無関係。カメラを持って世界中の奇習を訪ねて回るどころか、2人の男女が延々と変態行為に勤しむシンプル極まりない物語なのですこれ。