「フランク」という同じ名前を持つ15人のゴロつきが集まって徒党を組み、旅をする奇天烈なロードムービー。仲間内の不和や裏切り、他組織との軋轢に自殺が重なり、一人一人と姿を消していき、そして最後には誰もいなくなった、、かどうかは本作を観てのお楽しみ。
まず、アキ·カウリスマキの作品は、映画の世界におけるミニマリズムの実践の一例だったように思う(ちょうど80年代の中頃は、文学でもこのミニマリズムがブームだったと記憶している)。台詞を減らし、カメラワークを減らし、色を減らし、それからシーン自体を減らし、果てには音までもを無くしてしまう。70分という昔のハリウッドのB級映画並みの尺は、撮り溜めたシーンをごっそりカットしていった結果に違いないはず。このやたらに短い尺も含めて、映画に必要とされてきた様々な要素を切り捨ててもなお映画として成立していしまうカウリスマキ映画が大好きでした。
ミニマリスト的映画の実践において、本作のような15人の登場人物が画面を埋め、さらに多くの人物を巻き込みロードームービーを繰り広げるストーリーは、上記の意味合いにおいてはあまりカリウマスキ的ではないように僕は思う。そしてまさにその理由からこの映画にはノれなかった。肝心の台詞も渋滞気味で、誰が何を伝えたいのかわからずいまいち後に残らない、、
もっとも、グラサンをかけた無法者が、ロックンロールを通じて集い、同じ一つの場所を目指して旅をするという主題は、のちに監督が「レニングラード·カウボーイズ」をシリーズ化した際に引き継ぐものなわけで、本作のテーマは、若気の至りでもなければ、カウリスマキ固有の作風からの逸脱というのでももちろんなく、彼自身のやりたかったことがこの長編2作目に詰まっているとみるのが妥当なように思う。実際、カウリスマキの後期作品に至るまでメインで出演しつづける俳優がここにすでに勢揃いしているわけで。
僕個人が、この監督の映画にミニマリスト的なるものを期待し、引き算の思考で作品を観、何がなくとも映画を成立させられるかを実験する場として、彼の作品を手前勝手に愛好していただけの話。本作や「レニングラード·カウボーイズ」を好きな人が大勢いることは知っており、その人たちの趣味嗜好を否定するわけではもちろんありません。色々書いたけど、カウリスマキは最も好きな映画作家として我が意中に君臨しつづけそうです。