西部開拓時代の南部アメリカを舞台に、メキシコ人とアメリカ人の抗争に巻き込まれた孤独なガンマンの物語。一人の人間が、対立しあう複数の組織の間に入り、どちらにも肩入れせず、互いをけしかけあい、潰し合いをさせるプロットは、ダシール·ハメットの大傑作小説『血の収穫』が元になっている。それを映画の世界で初めて映像化した黒澤明の『用心棒』を、大枠のシナリオはそのままに西部劇へ移し替えたセルジオ·レオーネの『荒野の用心棒』、をさらにリブートしたのがこの映画、ということになる。
荒野の中でさながらオアシスのようにぽつんとたつ「町」の利権をめぐって南部アメリカ人とメキシコ人が対立しており、そこでは、残虐な行為の応酬がまかり通っている。捕えたメキシコ兵を、まるでウサギのように野に放ち、逃げ惑う彼らを銃で撃ち殺して楽しむアメリカ人のボス。対するは、捕えたアメリカ兵の耳を削ぎ落としてその本人に食べさせ、その上で蜂の巣にするメキシコ人のボス。僕のように平和な国で育った単純な想像力の持ち主には、「そうはならんやろ」と大興奮せざるをえないレベルの大悪党が敵役、、笑。綺麗事の存在しない世界が描かれている時点で、西部劇としては大正解だと思う(理由については記事の一番最後で詳述)。マカロニ·ウエスタン恐るべし!!
ケネディの暗殺や人種暴動、ベトナム反戦運動の嵐が吹き荒れる1960年代に、暴力とセックスを自主規制し、お伽話の世界に閉じこもっていたハリウッドに、皆が辟易していた頃、そのおとぎ話を打破する勢力がいくつか現れた。『俺たちに明日はない』のウォーレン·ビーティや『イージー·ライダー』のピーター·フォンダを筆頭に、アメリカン·ニューシネマの騎手となる若いアメリカの映画作家がそうだった。彼らが理想として掲げたフランスのヌーヴェル·ヴァーグももちろんそう。そして、イタリア人監督が相次いで手がけた「マカロニ·ウエスタン」も間違いなくその流れの中で観られていた、というのが僕の中での映画史的展望。裸に剥かれ、鞭打ちされる女性を主人公が助ける場面から幕開けるこの映画は、冒頭の時点からそのことを表明している。序盤からラストまで徹頭徹尾、暴力と不道徳の応酬で成り立っている。そんな映画を好きにならないわけがないのよ、、
ジョン·ウェインやヘンリー·フォンダの古典的な(つまりお伽話的な)西部劇とは一味も二味も違うこの新しい西部劇に人々は何を観たのか。それは人間の真実だと僕は思っている。まず本作で描かれる「悪人」は徹底して「悪人」。それは、彼らが”インディアン”であるために悪人なのではない。白人もメキシコ人も、等しく悪なのです。反面「正義」の側はといえば、これが「正義」というにはどうも煮え切らない。スーパーヒーロー的な強さと正義感を持ち合わせているのかと思いきや、メキシコ人たちと手を組んで、南部アメリカ人を襲撃し、奪った砂金を、こっそり盗んで逃亡。それに失敗し、報復として手を潰されてしまう、、この映画では、観客の期待を背負い颯爽と登場する主人公でさえもが、人間本来の欲望から自由にはなれない。悪人たちがみずからの欲望ゆえに「悪」を突き詰めるのとまったく同じように。
劇中のアメリカ人兵士が、赤いスカーフで顔を隠し、目の部分だけをくりぬいた、まるであの悪名高い「KKK」のようなルックスになっているのは、彼らが人種主義的な思想を持っているから、だけではないようです。話によると、製作費(とロケーション。なにしろこの映画はイタリアで撮られている。主演も当時無名のイタリア人)の問題で白人の俳優を雇えなかったために、その辺にいたスペイン人を主演させ笑、彼らの顔を物理的に隠すための苦肉の策として、あの赤い頭巾を美術スタッフが考案したのだそう。ただその結果として、登場人物の人種主義的な性格に拍車がかかったわけで、これは現場のアドリブが奏功したといえるはず。
主人公ジャンゴが、棺桶を引ぱって荒野を歩く、”本作といえば”なアイコニックなショットで冒頭から観客の注意を引き、「この町に棺桶はお似合いだぜ。何しろ毎日死者が山のように積み上がってるんだからな」などと端役に言わせておいて、主人公に危機が訪れた際、棺桶から取り出したガトリングガン(!)で敵を一網打尽にする展開。完璧かよ、、男心、ならぬ観客のうちにあるロマン主義的な理想を叶えた演出でしょう。シナリオにロマンを求めるのではなく、こうした小道具の使い方にロマンを持ち込む演出が僕は大好き。思えば、『007』シリーズだって、大枠のプロットでは冷戦化の現実世界を背景にしていながら、ボンドの鞄から飛び出す武器にロマンがあった。いや待って、『007』はプロットもロマンしかなかったか、、少なくとも映画の方は笑(小説はリアルに近かった)。
セルジオ·レオーネが監督し、クリント·イーストウッドが主演したあの『荒野の用心棒』が、60年代の大流行するマカロニ·ウエスタンの誕生を告げた記念碑的作品だとすれば、本作は、マカロニ·ウエスタンのジャンルのカルト的人気を定着させた一作。本来的には『荒野の用心棒』の続編でも何でもない(邦題め、、)のだけど、映画史的な展望でいえば「続」であってもおかしくはない気はする。まあそれを踏まえた上でも、配給側の都合で「続」と付けられたことは間違いなく、原題の「ジャンゴ」の方がよほど映画の雰囲気に即していると思う。そうじゃないと、ジャンゴ〜!ジャンゴ〜!と主人公の名前を叫び続けるあの主題歌の良さが伝わらない気が、、笑。
僕は元来、西部劇というジャンルと個人的に馬が合わず(馬はたくさん出てくる)、ジョン·フォードの西部劇でさえ、いやむしろフォードの超王道な西部劇こそ、嘘くさ、、と思い敬遠していた。この映画を観て、過去に、タランティーノの本作へのオマージュ作『ジャンゴ 繋がれざる者』を観た時に持ったのと同じ感想を抱いた。それは以下の通り。西部劇なんて所詮はあとの時代の人間が作った「嘘」でしかないんだから、どうせ「嘘」ならこれくらい盛大についてくれた方が楽しめるってもんよ、、、ではまた。