淡水に適応した人食い巨大鮫がセーヌ川に現れ、パリを恐怖に陥れる話。これはなかなかに酷い映画でした笑。とにかく作り手にとって都合の良い展開の連続でげんなりさせられる。ホラー映画とかパニック映画である前にお馬鹿映画に近いのだけど、これを科学やら何やらでそれらしく説明されるせいで薄ら寒く感じてしまう。話の流れとしては大体下記の通り。
サメが淡水に適応→単為生殖が可能になり、雌だけで大量の子供を作れるようになる→動物愛護活動家がサメを守るためにサメの体についた発信機を消す→パリで繁殖→市長がトライアスロン大会を開催し、餌(人間)が大量に川へ投与される→軍隊が川底にある不発弾を誤って爆破させ、パリが水没。サメの街になる。
どれをとっても都合の良い展開ばかりで、個々の要素がまったく有機的につながっていない。たとえば、活動家が、パリにいるサメを守る意志を、SNSを通じ全世界に発信するシーンがあるのに、そのすぐ後にトライアスロン大会が開かれる。パリにサメがいるって話は一瞬で人々の記憶から消えてしまう都合の良すぎる世界。そして、サメへの恐怖に逃げ惑う人たちが、押し合いへし合いの末に足を滑らせぼこぼこ川へ落ちてくのも都合が良すぎるんよ。
動物愛護活動家がサメの発信機をわざわざ切ったり、お馬鹿な市長が主人公サイドの人間の助言を無視して、私利私欲のためにトライアスロンを開いたりと、特定の個人の誤った判断でストーリーが展開していくプロットがあまりにいただけない。パニック映画が「天災」ではなく「人災」に見えてしまうと、余計に都合の良さが際立つのです。
冒頭に、ダーウィンの言葉「生き残るのは最も強い者でも最も賢い者でもない。変化するものである」が引用してあるのだけど、偉い人の肩の上に乗って、破綻したプロットを正当化しようしする意図が透けて見えるこうしたエクスキューズが僕はとても苦手です。「サメ映画」もお「馬鹿映画」も好きだけど、低級な映画を、まるで高尚なものであるのように外面だけ取り繕っているのがあまり好きでない。もちろんこれは個人の感想。
サメ映画って、本作のように科学的にあり得ないことを、さも科学的にあり得るかのようにそれらしく説明して正当化してみせるきらいがある。そうでなければストーリーが成り立たないわけで、それでも『ディープ·ブルー』や『メグ』はその正当化が嫌らしくない塩梅でなされていて、納得はできないなが、楽しむことはできた。でも、その自己正当化がここまでくるとさすがに都合の良さに目がいってしまい、映画として破綻してるじゃんと素直に思ってしまう。
だからこそ『シャークネード』シリーズはあんなに人気なのか笑。サメ映画はそもそもお馬鹿映画であるわけで、その前提の上に「お馬鹿」な要素を果てしなく積み上げていったら、そりゃ観る側も好きにならざるをえない、、笑。本作は、「お馬鹿」な前提の上に、知性らしきものを積み重ねていってるから、ツッコミどころが無限に生じてしまう。いやでもお馬鹿じゃん、って感じで。土台がぐらぐらな上に何を積み上げても、いやむしろ、まともなものを積み上げるだけ寒く感じてしまうんだろうな。